曽我兄弟(曽我の傘焼き祭り)

  • 二百年前から続く祭り

日本三大仇討ちの一つ『曽我兄弟の仇討ち』で有名な曽我十郎と五郎の霊を慰めるために毎年五月二十八日に下曽我の城前寺で行われる傘焼き祭り法会のことです。
これは二百年くらい前から続いていたようですが一時中断され、戦後復活されました。
復活後は年々盛大になっています。

  • 曽我兄弟の仇討ち

安元二年(1176年)伊豆の国で、兄弟の父 河津裕泰は、所領の争いがもとで工藤佑経の家来に弓矢で殺されてしまいました。
その後、幼かった兄弟は母 満江御前の再婚で曽我の里へ移り住みますが、父の無念を忘れることはできません。成長するにつれて、父の仇の工藤祐経を討とうとする気持ちは強くなるばかりでした。
建久四年(1193年)五月、源頼朝は富士山の裾野で盛大な巻狩りを催しましたがこの時、十郎と五郎は各豪族のひそかな援助や手引きで雷雨の激しい夜、 工藤祐経の陣屋に忍び込みました。兄弟は目指す祐経 を探しますが、松明が燃え尽きても見つかりません。かぶっていた笠を松明の代わりにして見つけだし、やっと祐経を討ち取ることができました。
兄の十郎はこの時に討ち死にし、弟の五郎は翌日打ち首になりました。十郎が二十二歳、五郎が二十歳の若さでした。

  • 傘焼き祭りの行事

兄弟の親を思う心と勇気がたくさんの人の心をうち、後々まで傘を唐傘に代えた傘焼き祭りとして供養が行われるようになったのです。
当日は正午から、曽我兄弟、虎御前、養父の祐信、満江御前の追善法要が行われます。
午後一時ごろ、読経の中、兄弟の仇討ち姿をした幼児二人が松明を持ち、満江御前の姿をした幼女と共に、僧の後ろについて本堂から降りてきます。本堂の前で松明に火がつけられると巻狩り姿の武士たちを後に従えて、兄弟の墓前に積まれた傘の周りを一周し、松明で傘に火をつけます。燃え上がる炎の周りを経を唱えながら僧が何回も回り、手にした造花をまきます。これには、魔除けや風邪を防ぐなどの効果あるとされており、参詣の人たちは競ってこれを拾います。
その後、僧を先頭に念仏衆や稚児姿の行列が下曽我駅まで行き、供養の経をあげて寺へ帰っていきます。
兄弟の孝行をたたえ、十郎、五郎の名にちなみ十円と五円を孝行銭と称して紅白の餅とともにまいたり、相撲の強かった兄弟の父にならって子供相撲大会を催したりと、祭りに彩りを添えることもあり、今では大変なにぎわいとなっています。
また、この日は兄弟を慕う虎御前の涙で必ず雨が降るという悲しい言い伝えがあります。
なお、前夜は兄弟の養父、祐信の供養のために百本を越す松明の行列が山から行われ、美しい火の行列を見ることができます。
一年使った傘は、兄弟の供養とともに一家の無事息災、至福繁昌を祈りながら焼かれますが、最近は唐傘を使うことが少なくなったので、寺で用意し、求めに応じて売るようになりました。
このように、昔から伝えられてきた傘焼き祭りは地元の人たちの熱意と努力で年々発展しています。

※日本三大仇討

今回ご紹介した曽我兄弟の仇討ち、寛永十一年(1634年)荒木又衛門の伊賀上野・鍵屋の仇討ち、元禄十五年(1702年)赤穂義士の仇討ちが日本三大仇討といわれています。